2024.7.22
1997年埼玉県生まれ。自転車を始めたのは高校生のときと決して早くはなかったが、トラック競技ですぐに頭角を現し、あっという間に全国レベルの選手に成長。全日本チャンピオンも獲得し、国内では無敵の存在となる。ステージを世界へと移した後も快進撃は止まらず、2020年の世界選手権ではオムニアムで優勝、世界チャンピオンに輝く。2021年に行われた東京オリンピックでは銀メダルを獲得した。なお、自転車トラック競技で日本人女子がメダルを取ったのはこれが初。今年、パリオリンピックで念願の金メダルを狙う。
この人の記事一覧へかつて、「競泳でオリンピックの金メダル」を目指していた」という梶原悠未さん。高校進学と同時に自転車のトラック競技へと転向し、その才能はすぐに開花。2020年には世界チャンピオンとなり、2021年の東京オリンピックではついに銀メダルを獲得しました。しかし、夢はあくまで「オリンピックで金メダルを獲ること」。順風満帆にも思える彼女の来歴ですが、過去には勝てない苦悩や幾度もの怪我など、挫折も経験したそうです。梶原さんに競技者としてのこれまでの紆余曲折と、競技へのこだわり、将来の展望について聞きました。
―自転車競技を始めたきっかけは?
1歳から中学3年生まで競泳をやっていたのですが、小学5年生のときにテレビで北京オリンピックを見て、北島康介選手が金メダルを獲得する姿に憧れて、「いつかオリンピックで金メダルを獲りたい」という夢を抱きました。小学校のときは全国大会で表彰台に上がれることもあったのですが、中学生最後の全国大会県の予選で、0.02秒のタイム差で標準記録を突破できませんでした。練習や他の大会ではもっと良いタイムが出ていたのに……。
そこで、本番で力を発揮できなかった自分のメンタルの弱さに落ち込んでしまい、「オリンピック選手になるのは難しいかもしれない」と、母と2人で車の中で泣きました。そのとき、母に「こんなに頑張っても全国大会に出られなかったということは、神様が『他の競技をやりなさい』って言っているのかもしれないね」と言われたんです。
―お母さんの一言がきっかけだったのですね。
そうなんです。これまで水泳一筋でやってきて、水泳でオリンピックを目指していたので、「まさか自分にそんな選択肢があるなんて」と、ものすごくびっくりしました。もちろんすぐには決められなかったので、高校受験をする際に、強豪水泳部がある私立の高校と、水泳部がない国立の高校の2つを受けました。その結果、第一志望だった国立の筑波大付属坂戸高校に合格したので、高校で新しい競技を探すことにしました。
高校では陸上部と自転車競技部が候補に上がり、どちらにしようか迷っていましたが、母に相談したところ、「これまで水泳では体一つで戦ってきたのだから、次は自転車という機材を使うスポーツをすれば可能性が広がるかもしれないね」と言われ、自転車に挑戦してみようと決めました。完全に未知の世界でしたが、始めて2カ月でインターハイに出場することができました。でも、そこで初めて落車を経験してしまったのです。全身に擦過傷を負ってしまい、「こんなに危ない競技なんだ!」とショックを受けました。
―初めてのレースで落車と怪我。「自転車怖い!」とはならなかったのですか?
なりましたよ。やめたいとも思いました。でもそのとき、顧問の先生に「落車が怖いんだったら集団から抜け出してしまえばいい」「独走して勝てば落車には巻き込まれない」って言われて。それからはスタートから独走して逃げて勝つという戦術をとってました。その結果、高校1年生の全国選抜大会で3種目優勝することができ、ジュニアの強化指定選手に加えてもらえるなど成績が出るようになったので、「自転車で世界を目指そう」と考えるようになりました。
―東京オリンピックを意識したのは?
高校3年生で全日本のオムニアム(※)で優勝したときですね。大学進学にあたって「世界選手権優勝」と「東京オリンピックでの金メダル」という目標を掲げました。そこで、自分ですべてコーチング、マネジメントできる自立したアスリートになろうと決め、栄養学・スポーツ法学・スポーツ産業学・バイオメカニクスなど、アスリートに必要なすべての知識を学べる筑波大学への進学を決意しました。
※オムニアム:1日のうちに異なる4種類のレースを行い、総合ポイントで順位を決めるトラック競技。瞬発力、持久力、戦術の組み立てなど、すべての能力が求められる。
―梶原さんレベルの選手だと、コーチやトレーナーに任せるという選択肢もあったのでは?
私は自分で考えるのが好きなんです。論文を読み、確証あるデータをもとにメニューを組み立てて、自分を検体にして試し、レースの結果からフィードバックを得て、改善して、勝てるトレーニングメニューを作り上げていく、その過程がすごく楽しいんです。
栄養面に関しては母のサポートが欠かせません。母は私が小さいときから食事を用意してくれていたので、私が学んだ栄養面の知識を母に伝えて、実践してもらっています。メディア対応やスポンサーへの訪問などもマネジメント会社を通さずに母と2人でやっています。もちろん、失敗して涙したことも過去にはたくさんありましたが、ゼロからイチを作ることで得られることも多いですし、そういう経験があるからこそ後輩たちになにかを伝えられるのではないかと思います。
―そうして2021年の東京オリンピックでは女子オムニアムで見事銀メダルを獲得されました。順風満帆にも見える梶原さんの選手人生ですが、これまでに挫折はあったのでしょうか?
まさにその東京オリンピックですね。金メダルだけを目指して取り組んできたので、銀メダルで終わったのがすごく悔しくて。東京オリンピックまでも色々な試練と課題を乗り越えたのに、金には届かなかった。「じゃあオムニアムで金メダルを獲ったジェニファー・ヴァレンテ選手(米国)は私以上に辛い思いをしてきたんだ」「私はもっともっと苦しまなきゃいけないんだ」「パリまでの3年間はどんな試練が待ち受けているんだろう」って、ネガティブな想像をして落ち込んでしまって、レースでも結果を出せなくなってしまいました。
そのバーンアウト(燃え尽き症候群)をどうにかして克服しなければいけないと思って、2022年の2月から8月までコンチネンタルチームに所属し、スイスを拠点にヨーロッパのワールドツアーを経験しました。海外の選手たちと生活を共にして、純粋に自転車を楽しんだり、強い選手のトレーニング方法を学んだことで、さまざまな気付きを得ることができました。しかし、再出発しようと思った矢先、レースで落車し、肋骨骨折や膝の靭帯損傷などの大けがを負ってしまったのです。
そのような試練はありましたが、支えてくれる方々に救われました。東京オリンピックの前から支えてくださっていた方々に加えて、オリンピックに出たからこそ私を知ってくれて応援してくださる方が増えたのです。そういう方々から力をもらったからこそ、苦しいことに向き合って乗り越えられたのだと思います。東京オリンピックの直後は、「苦しまないとメダルは獲れない」と考えていましたが、今は「楽しむことでメダルに近づく」と思えています。
東京オリンピックの後に母校の小学校にヘルメットを80個とオリンピックの表彰台を寄贈し、講演会をしたときに、子供たちがすごく喜んでくれたんです。先ほども言いましたが、私は小学生のときにオリンピック選手に夢をもらいました。だから「今度は自分がたくさんの人に夢や感動を与えたい」とずっと思っていましたが、メダルを獲ったことで子供たちを笑顔にすることができ、「夢が一つ叶った」と実感できました。
―パリオリンピックでの目標は?
女子オムニアムでの金メダル獲得です。東京オリンピックでの悔しさをばねに金メダルを獲って、応援してくださった方々に恩返しをして、子供たちと喜びを分かち合いたいと思います。
(聞き手:安井行生)
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