TOPインタビュー西薗良太さん インタビュー

Interview インタビュー

元全日本タイムトライアル王者が語る、ロードバイク人生と"仮説思考"

—スポーツ用自転車に本格的に乗り始めたのはいつですか?

 中学生のときに陸上部に入っていたのですが、1年生の終わりくらいに膝を痛めてしまいました。陸上の練習で膝に痛みを感じつつ、通学で使っていたクロスバイクでは乗っても膝が痛くなかったので、自転車に乗ることの良し悪しを医者に聞いたところ、心肺機能や筋肉を維持するためにも、自転車に乗り続けたほうがいいと薦められました。そうして乗っているうちに自転車が楽しくなってしまいました。

 帰宅途中も、クロスバイクを買った店舗に通っていました。店内の自転車を眺めまわす“謎の少年”といった感じで、機材にも興味がありました。ユニクロのスポーツウェアにレーサーパンツを履いて、セール品のビンディングペダルを装着して、実家(鹿児島県霧島市)付近を走り回っていましたね。田舎なので、変わったことをやるのは風当たりが強くて、先生たちも怪訝な感じだったんですけど。

—自転車レースに出始めたのはいつからですか?

 中学2年生の12月に初めて、隣町で開催されたヒルクライムレースに出ました。割と無根拠に“自分にすごく合っている”という感覚があって楽しかったです。小学生のときから祖母の家まで20km、山がちな道のりを自転車で行って冒険することが好きだったり、中学1年生のときも陸上で県大会で10番くらいの成績だったりと…。今思えば謎なんですけど「いいところにいけるんじゃないか」という感覚がありました。

—初めての自転車レースはクロスバイクだったのですか?

 熱心にクロスバイクに乗っていたら、通い詰めていた自転車屋さんから、ロードバイクを貸してもらえたので、それでレースに出場しました。

—初レースの結果はどうでしたか?

 中学生の中では1番でした。大人も含んだリザルトだと10位くらいでした。それが悔しくて、中学3年生のときに、もう一度出て、そのときは優勝しました。

—高校に入ってからはどうなったんですか?

 自転車好きの社会人に、走り方の基礎を教えてもらったり、レースに連れて行ってもらったりしました。自転車部も作ったのですが、基本的には、中学も高校も学校終わりに一人で走っていました。

—青春時代に孤独な練習は辛くないですか?

 そうですね。(友達を)自転車の世界に引き込もうとした記憶はあります。でも、引き込もうとしても、10万円以上の自転車を買ってもらうのは大変なわけで…。それでも、夏休みのときは、何人かを引き込んで自転車で遠くに行って、バイクパッキングみたいなことはやっていました。

—孤独に打ち勝てるのはすごいですね。

 選手になってからも、パワーメーターを相手に、一人で練習する生活を送っていました。元を辿れば、中学生の頃から科学的トレーニングに興味があって、心拍計を買って一人で練習をしていましたし、自転車とは本来そういうものだと思って、人と関わることが少なくても乗り越えられたという感じです。

 周囲には 仲間と切磋琢磨してきたというプロ選手が多いのですが、自分はメンタル的にタイムトライアルが好きで、いくつか区間を決めてタイムを更新することに闘志を燃やしていました。

—高校のときの自転車レースの成績はどうだったのでしょうか?

 インターハイには出られませんでしたが、ヒルクライムレースは中学校3年生のときから連覇しました。

—東京大学を目指そうと思ったのはなぜですか?

 進学校でありつつも、毎年、東大合格者が出るような学校ではありませんでした。それでも東大を目指したのは、兄と慕う人が近所にいて、その彼が東大に進学したからです。「彼が行けるなら僕も」と根拠なく目指したんですよ。「これがやりたい!」ということはなかったし、数学も物理も好きだったので、東大の理系学部に入れればいいや、という考えでした。

—東大に入って自転車部に入部したわけですね?

 東大自転車部に入れたのは幸運でした。経済的に恵まれていないと、大学生が自転車競技を続けるのは難しいですよね。レース会場に行くだけでお金がかかりますから。東大自転車部には、移動のための“部車”があってサポートしてもらえました。国立大学でこうしたサポートがあるところは少ないんですよ。

 入部してからトレーニングを積んで、そこそこ強くなりましたが、バイトをしたり、授業に出たりと、時間の制約が厳しくて、1年生の段階で全国トップテンに入るのは難しいように思えました。

—時間的な余裕があるのが大学生かと思っていました(笑)

 大学2年生の秋に なると進学振分けがあります。希望の学科に行くにはテストで点数をとる必要があり、勉強を怠れません。生活のためにバイトもしなければならず、時間的な余裕は多くはなかったです。そうした状況だったので、1年生の秋から、もっといい方法を考えようと部内で話し合うようになって、パワートレーニングに辿りつきました。東大・八田研究室の研究員で、パワートレーニングの被験者を探していた柿木克之さんに出会い、指導していただくことになりました。以後、僕らが実験台になったわけです。

 柿木さんから、フィジカルのパフォーマンスを上げるための理論的な説明を受けて、理論通りに忠実に実行していきました。パワーメーターから収集したデータに異変があればそれを適切に修正したり、アドバイスが欲しかったら勝手に聞きに行ったりして、手間暇が少ない分、被験者としては優秀だったと思います。

—それまでとの練習方法の違いは?

 実行したのはシンプルなことです。原則を理解して、雑に乗る時間をなくしました。それまでは実走のみでしたが、平日は忙しいので固定ローラーを活用して、土日は実走というやり方に切り替えました。

 理論に忠実にトレーニングを続けたら、本当にきつい場面や時間帯で持続できるようになりました。力押しが通じるようになったというのか、3分から5分の間、耐え続ける場面をしのげるようになりました。一方、ロードレースで展開に絡むのは下手でしたね。

—ロードレースで展開に絡むために何をしたのでしょうか?

 ひとつはブログの存在が大きいです。東大自転車部にはブログを書く習慣があって、レースの振り返りを行っていたことがよかったと思います。

 もうひとつは、レースにはこまめに参加したことです。展開に絡むレースをするように自転車部の監督から求められていました。とにかく、仮説を持って、判断できるようになることが大事で、勝ち目がなくても、とにかく逃げていました。

 それを続けることで、その場、その場で判断して、良し悪しが判断できるようになります。メイン集団に残って力尽き果て落ちていくだけのレースを続けても、何も得られないですから。逃げ集団で粘ってみて、力尽きたなら得るものがあります。最初のうちは逃げ集団に乗ることを目的としていました。

—逃げ集団に乗り続けると、何か見えるのでしょうか?

 レース後半まで続く逃げ、続かない逃げの違いなどですね。誰とならメイン集団は逃げを容認してくれるのか、そうした集団の意思を素早く感じ取れたり、人やコースなど、どういった条件が揃ったら逃げ集団に入れるのかが判別できるようになったりします。プロになれば、さらにしっかりしたロジックになるので、違う次元でロードレースの複雑さと面白さを感じ取れるようになります。

—大学3年生のときにインターカレッジ(全日本大学対抗選手権自転車競技大会、以下インカレ)のロードレースと個人タイムトライアルで王者になりましたね。

 春から調子が良くて、「インカレはいけるかもしれない」と思っていました。自信を深めたのは、インカレ前に行われた大町美麻実業団レースでした。日本のトッププロも参加したトップカテゴリーのレースにタイムトライアルとロードレースの2種目があって、いずれも佐野淳哉選手(2015年全日本自転車競技選手権大会ロードレース王者)に次ぐ2位だったんですよ。自信を持ってインカレに臨んだら優勝できました。

—その後、大学を卒業して自転車選手の道を歩むことになります。

 大学4年生のときに、シマノレーシングからオファーをいただきました。 勉強は後でもできるから、選手をやってみるのも面白いと思い、自転車の道を選びました。

 一方で、勉強したいという気持ちもありました。なので、大学院の入学試験をパスしておいて、休学して自転車をやろうと。大学4年生の8月に入学試験があったのですが、それがインカレのロードレースの1週間前だったので焦りました。個人タイムトライアルは初夏だったので練習時間も確保できて連覇できましたが、ロードレースは練習時間が取れませんでした。それでもロードレースでは2位に滑りこめたので、いい大学生活が送れたという感じです。

 プロとして活動していくなら、海外のレースで走れる選手になりたいと考えていました。プロ2年目、当時のブリヂストンアンカーに所属していたとき、全日本TT(全日本自転車競技選手権大会タイムトライアル)で日本チャンピオンになれたことで、海外のプロコンチネンタルチームのチャンピオンシステムから声がかかって、晴れて望んでいた環境で走れることに。モチベーション高く選手を続けることができました。

—大学院に戻ろうとは考えなかったのでしょうか。迷いはありませんでしたか?

 迷いは常にありました。大学院の休学期間は最長2年までだったので…。けれども、欧州ではプロコンチネンタルチームのステータスは日本人が思っている以上に高いんですよ。レースのレベルも高くて、ツール・ド・フランス勝者のブラッドリー・ウィギンス元選手やクリス・フルーム選手とも戦えたり、チームの体制も整っていたりして、世界中いろんなところを回ることができました。このときも、勉強はいつでもできるな、と思っていました。

—2013年シーズンで一度引退していますが、何があったのですか?

 その年の9月くらいにチャンピオンシステムがチームを解散することを決めたんですよ。国内チームに残る選択肢もあったと思いますが、コンチネンタルチームで走ることの期待感が少なく、ある程度やり切った感もあり、引退の道を選びました。

—2014年に民間企業に就職しますが、そこでは何をしていたのですか?

 ブレインパッドという会社で、データアナリストをしていました。広告配信の予算最適化に向けてCRMデータの分析をしていました。

—わずか一年で退職してしまい、自転車の世界に戻ってきますが、何があったのでしょうか

 2014年の夏、当時、ブリヂストンアンカー所属の清水都貴さんが家に来てくれて、復帰しないかと言われたんです。新城幸也選手や別府史之選手に続く人材がいないので、もう一度やってみないか、ブリヂストンなら話をつなげると。

 自分も引退当初はやり切った感があったのですが、2013年シーズンでもデータを見ると、身体的な限界はまだ先にあることがわかっていたのが相当心残りでした。結局、会社勤めをしてみて、勉強は後でもいいかな、と思えたんですよね。またかよ、またかよ、みたいな感じなんですけど(笑)。

—一度衰えたフィジカルを取り戻すのは大変ではないですか

 引退していた2014年に、ストレングスやバイオメカニクス的にフィジカル能力を底上げするアイデアをたくさん仕入れて、それを試してみたいと思っていました。ゼロから構築していくのも楽しかったですよ。

—どんなアイデアでしたか?

 自分の場合、上半身と下半身の連動が悪かったりとか、左右差が結構あったり、細かいことの積み重ねになりますが、それらを修正するアイデアを人からもらいました。それでトレーニング方法も変わりました。2013年まではひたすら自転車に乗るトレーニングでしたが、復帰してからは、自分の課題を修正するためのウエイトトレーニングの方法を理解し、冬の間、かなりの時間をジムで過ごすようになりました。

 その結果として、以前は“ハマると速い”という感じでしたが、安定的にレース終盤まで力を出せるようになりました。生理学的な最大パワーの向上にはつながっていないかもしれませんが、安定して最大限に近いパワーが出せるようになった感じです。2017年のツール・ド・北海道でも更新していましたし…。

—なぜ再び、辞めてしまったのでしょうか?

 一番大きいのは家族の存在です。2016年に娘が生まれたのですが、選手としての練習環境を求めると、家族と離れて暮らさねばなりませんでした。ビデオ通話で娘の顔を見るたびに、どんどん成長していくのが感じられて、それで心が痛くて…。家族で暮らしたいな、と。

 それから、若手が育って来たというのもありますし、僕が頑張らなくてもいい状況になったのもあります。30歳くらいがちょうどいい節目だったというか、そろそろ勉強しないといけないというのもありましたし…。

—今は東京大学の大学院生ですが、何を研究しているんですか?

 簡単に言えば、動く物体にプロジェクションマッピングをするような技術の研究です。動きをセンサーでとらえて、画像データを高速で動きに合わせて投影するといった技術です。それを実現するために高速視線制御というものを研究しています。VR(バーチャルリアリティ)やAR(拡張現実)といった技術分野で使われます。

—自転車とはあまり関係がなさそうですが…。

 人間は同じ動作でも、毎回同じ動きができるわけではなく、評価が難しいという大きなハードルがあります。対して、スポーツに役立つのは、工学的には当たり前のことが多く、研究になりにくいので、スポーツではなく産業向けの研究を行っています。

 自転車との関わりでは、ポッドキャストで「Side by Side Radio」という番組をやっています。今はシクロクロスのネタが多くなっていますが、当初のコンセプトは若い選手に、英語で記されることの多いスポーツ科学に関するコンテンツを提供したいと考えて始めています。

—西薗さんはどこに向かっていますか?

 それはよくわからないですね。割と興味の赴くままに面白いことをやっているだけです(笑)。