2023.2.9
俳優として舞台や映画、テレビドラマに出演する他、アニメ・映画の吹き替えなどの声優としても活躍。ヒルクライム好きの俳優を意味する「坂バカ俳優」という愛称で、NHKBS1『チャリダー★快汗サイクルクリニック』(4月から隔週金曜21時30分に放送日時変更)のレギュラーメンバーとして人気を博す。
この人の記事一覧へアウトドアメーカーの広報担当を経て、2015年に産経デジタルに入社。5年間にわたって自転車専門webメディア『Cyclist』編集部の記者として活動。主に自転車旅やスポーツ・アクティビティとして自転車の魅力を発信する取材・企画提案に従事。私生活でもロードバイクを趣味とし、社会における自転車活用の推進拡大をライフワークとしている。
この人の記事一覧へテレビ番組であることを忘れ、体当たりで自転車に打ち込む姿が多くのサイクリストの共感を集める“坂バカ俳優”こと猪野学さん。レギュラーを務める自転車情報番組『チャリダー★』で表彰台獲得を夢見て苦節10年、昨年末ついにその夢を達成しました。50歳直前、「さすがにもう歳かな…」とあきらめかけていた矢先の出来事。猪野さんは「こんな僕にもできるんだと。自転車を通して、成し遂げることの可能性を伝えられたら」と話しています。
─昨シーズンはついに“秘策”のトレーニングに取り組まれていたそうですね。
毎年8月末に開催される「乗鞍ヒルクライム」で自己ベストを更新することが番組恒例の挑戦企画になっているんですが、あまりにもタイムを更新できないので…覚悟を決めてプロのトレーナーの方にトレーニングメニューを組んでもらい、一昨年の末から取り組んできました。“アラフィフ”になったら高強度トレーニングは週2日で良いそうで、レストや低強度運動で疲労を抜くことにも重きを置くという練習内容でしたが、週2日といってもそのトレーニングがものすごいエグくて…(苦笑)。
─どのようなメニューだったんですか?
「スイートスポットトレーニング」(SST)といってFTP(※)の8割程度の強度でひたすら20分漕ぐ、いわゆる持久系のトレーニングです。3月頃まで20分走を3本、そのうち4本、5本と増えてきて…、さすがにローラーに4時間も乗り続けてると頭がおかしくなってくるので、一人で河川敷へ行って黙々と走ることもありました(笑)。
SSTを「下からの突き上げ」というのに対して、今度は「上からの引っ張り」といって高強度トレーニングを90秒×3本とか、3分走×3本とか。それを最初の20分走を数本やったあとにやるわけですよ。「それを続ければ、いつか必ずドカンと突き抜ける、爆発するときが訪れる」というトレーナーの言葉を信じて続けていましたが、それはもう地獄で…(苦笑)。そのトレーニングを行うのは大体火曜日と金曜日で、その間は完全レストというサイクルでした。
(※FTP:1時間維持できる限界出力)
─しかし、乗鞍本番ではあまり結果は振るわなかったとか…
過去最悪のタイムでした。もう、絶望ですよ(苦笑)。ただ、乗鞍はいわゆる“バッドデイ”に陥ってしまったようで、体調が悪くて思うように力が入らなかったんです。それで終わってしまうのが悔しくて、乗鞍から約半月後、再び番組の企画でマウンテンバイク(MTB)レースの「セルフディスカバリーアドベンチャー(SDA)・イン・王滝」(※)の100kmの部でリベンジさせてもらったんです。
そしたらなんと、年代別(40代)カテゴリーで2位に入賞することができました! 49歳にしてようやく悲願だった表彰台に乗ることができたんです。目標にしていた乗鞍ではありませんでしたが、「いつか爆発する日が来る」という“SST神話”は本当でした。表彰台にあがったときは感無量で、10年分の涙が出ました(笑)。
(※SDA王滝:長野県木曽郡にある王滝村を舞台に林道を駆け抜ける壮大かつ過酷なMTBレース。最短20km~最長120kmまでのカテゴリーがある)
─おめでとうございます! SDA王滝は国内屈指のタフなレースだと聞きますが、具体的にトレーニングの成果をどう感じたのですか?
5時間くらいかかるレースで、最後の最後に激坂を周回するコースがあるんですが、一緒に走っていた人たちが皆そこで“たれ”る(スピードが落ちる)中で、僕はそこから「まだまだ行ける」という感じでパワーが上がったんです。
実は王滝の1週間くらい前に行われた「特訓ロケ」で、ある瞬間、突然呼吸が乱れなくなったんですよ。いつもなら心拍数が上がる力で漕いでるはずなのに、どれだけもがいても息があがらないし、出力も落ちない。それ以来、東京でいつもと同じトレーニングでもがいてもやっぱり呼吸が乱れることはありませんでした。いわば「心肺機能が突き抜けた」とでもいうか。その1週間後という絶妙なタイミングで王滝を迎えたので、ぎりぎり間に合った感じでした。
ただ、1年の間に出せるエネルギーが人によってある程度決まっているそうなので、12月にいったんトレーニングを止めました。休まずにトレーニングを続けると、回復に3週間ほどがかるようなバッド状態に陥ることもあるようです。この年齢になると、回復を含めて綿密にトレーニングを管理しないといけないみたいなので、同年代の皆さんもトくれぐれもトレーニングのやりすぎには気を付けましょう。
─憧れだった表彰台に登れたことで心境に変化はありましたか?
MTBとはいえ、最高峰のレースで表彰台に登れたことでどこか心の余裕のようなものが生まれました。あきらめかけたときにこういうことって起きるんだなと。乗鞍で過去最悪のタイムを更新し、歳も歳だし、「さすがにそろそろ潮時かな…」と思っていたところだったので、今回の結果が出せたことで「まだいける」という自信につながりました。
もし途中であきらめていたら、こんなこと起きなかったわけじゃないですか。たまたまあきらめなかっただけのこと。夢が叶うか叶わないかは、本当に紙一重なんだと感じました。昨年の10月に誕生日を迎えましたが、この経験があるかないかで50歳を迎える感慨はまったく違ったものだったでしょうね。人生の節目を迎えましたが、おかげでこれからも頑張れそうです。50歳になって年代別カテゴリーの中ではフレッシュになったので、来年こそは主戦場である乗鞍で活躍できたらと思います!
─猪野さんの番組での活躍に刺激を受けているサイクリストも多いと思います。
乗鞍をはじめ、ヒルクライムのイベント会場に行くと、同世代の方を中心に「猪野さんを目標に頑張ってます」と声をかけてくださる方や「猪野さんには乗鞍に挑み続けてほしい」といってくださる方がいたり、中には「猪野さんがロードやめたら日本のGDP下がりますよ」なんてこともいわれたり…(笑)。
ありがたいことに僕を目安にして頑張っている方がけっこういらっしゃるようです。やはり「坂バカ」は自分の一つの柱なので、そこにはこだわりつつ、王滝のような時々違う分野のレースに挑戦したりしながら新しい気づきを得ていきたいと思います。視聴者の皆さんにも僕を通じてMTBに興味をもったり、色々なジャンルに挑戦しながら楽しみ方の幅を広げてくれたらと思います。
─挑戦といえば、新型コロナウイルス禍では「エベレスティング」(※)にも挑戦されていましたね。
あれは数ある挑戦モノの中でも、桁外れにきつかったです(苦笑)。エベレスティングってやればやるほどゴールしたくなるというか、積み重ねていくと途中で諦められなくなるんですよ。それこそ6000mとか7000mでやめたらめちゃくちゃ悔しいじゃないですか。そこでやめたらそれまでの何十時間が無駄になるので、とにかく完走を目指しました。途中からひたすら道路の白線だけを見て走ってました。白線の上を辿って走っていればいつか頂上に着きますし、崖から落ちることもないですからね(笑)。
(※エベレスティング:獲得標高がエベレストの標高と同じ8849mになるまで坂を上り続けるチャレンジ)
でも、こういう鍛錬の一つ一つが過酷な状態に置かれたときの忍耐力として培われているんじゃないかと思います。王滝もきつかったんですけど、数々の過酷なロケや挑戦が間違いなく糧になっていたと思います。とくにエベレスティングの経験は何ものにも代え難いくらい強烈で、あれに比べれば大概のことは大したことないと思えるようになりました。獲得標高の“ねじ”も完全に外れて、獲得標高3000mとか4000mといわれてもなんとも思わなくなりました。
そんな話を「ドクター」こと竹谷賢二さんにしたら、「ネジは外したもん勝ち」って言われましたけどね(笑)。
─猪野さんが自転車番組を通してこれからも伝えていきたいことは?
自転車という乗り物を通して人間模様や楽しさはもちろん、「自分にもできるかもしれない」という可能性を伝えていきたいですね。例えばこんな僕でも10年間やり続けてきて表彰台に登ることができた。それって夢とか希望を感じませんか? 僕だけでなく、うじきつよしさんとか他のメンバーもそうですけど、頑張ったり挑戦したりした先にある可能性を体現できる番組であり続けられたらと思います。
レースだと速さが基準になりますけど、自転車って必ずしもそれだけではなく、例えば距離という目標もありますよね。自分の脚で遠く離れた場所を目指すとか、イベントに出て完走を目指すとか。それが達成できたら、達成できなかったときの自分はもう過去の自分。できた時点でバージョンアップ、スマホで言ったら「新しいOS」になっているわけですよ(笑)。そういう意味で、“王滝後”の僕はものすごくバージョンアップしたと実感しています。
大谷翔平選手や村上宗隆選手を見ていても思いますけど、閉塞感が漂うこの時代に挑戦することの可能性を伝えられる、感じてもらえるという意味で、スポーツにはとても大切な役割があると思います。『チャリダー★』も視聴者の皆さんにとってそういう存在になれていたら嬉しいですね。
(文・写真:後藤恭子)
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