2024.12.23
2016年に行われたロードレース大会で落車。脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭蓋骨・鎖骨・肋骨・肩甲骨を粉砕骨折、三半規管損傷を負う。医師から「治らない」といわれた容態は乗り切ったものの、高次脳機能障害が残る。その後知人の勧めでパラサイクリングに参加。2020年東京パラリンピックでは日本人選手過去最高齢での金メダルを2つ獲得。日本自転車史上初の同一大会2冠を達成。パリパラリンピックでは女子個人ロードレースで東京大会に続いて2連覇を達成すると共に、自らの持つ日本人の最年長金メダル獲得記録を53歳に更新した。
この人の記事一覧へ東京2020パラリンピック、そして今年行われたパリパラリンピックと、自転車競技の女子個人ロードレース(C1-3)で2連覇を達成した杉浦佳子選手。ロードレース中の事故で高次脳機能障害という重い障害を負い、周囲から再起不能といわれながらも、努力の末に再びレースの世界へと返り咲き、栄光をつかみました。自転車へと再び戻った理由は、「あの楽しかった時間に戻りたい」という強い思いでした。
─パリ大会を振り返って、いまの気持ちを聞かせてください。
正直あまり偉業を成し遂げた実感はなくて、「終わったなー」という感じ。障害のせいで遠征中の移動一つとっても周りに迷惑をかけてばかりだったので、メダルがとれてようやく恩返しができたかなと思います(笑)。
─複数の競技の中で、ご自身にとってはロードレースがメインだったのですか?
今大会でメダル獲得を狙っていたのはトラック種目の「3000メートル個人追い抜き」だったんです。昨年の世界選でも金メダルをとれていたので、このままいけば絶対獲得できるという自信がありましたが、残念ながら5位に終わりました。
持病の喘息で体調を合わせられなかったこともありますが、それ以上に他国の選手がものすごくレベルを上げてきていて、自己ベストを出しても銅が限界だったと思います。そんな自分が許せなくて、「日本に帰りたい」というより「帰れないかも」と思っていました。
そんな思いもあって、「金は難しくてもとにかく最後に何としてでも結果を出さなければ」という思いで、ロードレースに臨みました。なので、金メダルを獲得したときは信じられなくて。とにかくほっとしました。
─杉浦さんは「C3」クラスとのことですが、高次脳機能障害とは具体的に自転車競技においてどのような支障があるのでしょうか?
「C」は2輪の自転車の意味で、障害の程度応じてC1(重度)~C5(軽度)まで5段階に分けられます。私が属するC3は真ん中。切断や麻痺などの四肢障害で、半身麻痺の選手が多いです。
「高次脳機能障害」は脳の壊れた部位によってまったく症状が異なっていて、私の場合は左脳損傷していて、その結果右半身の力が弱く、主に左脚で漕いでいます。握力にも差があって、右と左で3:7くらい。なのでブレーキを左右逆にしています。それに加えて平衡感覚を司る三半規管も損傷しており、当初、自転車に乗ることは無理だといわれましたが、目をよく使うことと体幹を強化することでそれを補えるようトレーニングをしています。
─パリ大会ではカテゴリーが「C1-C3」となっていましたが、C1からC3までの選手が同じレースに出場するということですか?
そうです。4種目ある自転車競技のうち、タイムトライアル系は係数をかけて障害の差を調整します。かなり差をつけないとC1、C2に勝てないのですが、一方でロードレースになると係数がないので、我々にとってはロードレースが有利ということになります。その代わりといってはなんですが、C1とC2の選手には前を引かせず、C3の選手同士でローテーションを回すという暗黙のルールのようなものがあります(笑)。
─そもそも杉浦さんが自転車競技を始められたきっかけは?
もともとは運動をまったくしていませんでした。子供が小学校にあがったときに「体型が崩れた」といわれたのを機にジムに通い始め、そこでフルマラソンのポスターを目にして、30歳になる直前に20代の記念にとフルマラソンに挑戦しました。自分なりに頑張って走りきれたことがものすごく嬉しくて、その達成感に魅了されました。
それで30代の記念は「もっとすごいことをやりたい!」と思ってトライアスロンに挑戦することにしました。その後2人目の子供が生まれたので、少し時間が空いて38歳のときにようやくロードバイクを購入。宮古島のトライアスロンを完走しました。さらに40代はトライアスロンで世界選を目指そうと、自転車ショップの仲間たちとヒルクライムレースに出場し始めました。そんななか一緒に表彰台にあがった実業団の選手から「チームに入らないか」と誘われ、それでロードレースに出場するようになりました。
─そして2016年にレース中に事故に遭い、受傷後1年も経たないうちにレースに復活されています。「高次脳機能障害」と認定され、再び自転車競技へ戻ることに恐怖はありませんでしたか? また、なぜ自転車競技を再開したいと思ったのでしょうか。
私は記憶障害もあって、いまもまったく事故当時の記憶がありません。でも楽しかった記憶は残っていた。皆と自転車に乗っていて楽しかったなーとか。誰と走って楽しかったとか、名前は思い出せなかったのですが、「あの場に戻りたい」という感覚だけはぼんやりとありました。仕事に関してもそうで、薬剤師の仕事も充実していたなっていう、その充実感の感覚だけが残っていました。
「薬剤師の仕事には戻れない」といわれましたが、言語聴覚士の先生から、同じ障害をもちながら復職した女医の方がいることを教えてもらったんです。私にはそれが希望の光に見えて。私も「ドクターができないといったことができるようになれば、誰かの希望になれるんじゃないか」、そうなりたいと思って戻る努力をしました。
─リハビリにエアロバイクを取り入れていたそうですね。
様々なリハビリに取り組む中で、最も効果があったのがエアロバイクだったのではないかと言語聴覚士の先生がおっしゃっていました。なぜかというと、「第2の心臓」といわれているふくらはぎをうまく動かすことで、血液の循環が良くなる。それによって、壊れておらずいままで使ってこなかった脳細胞に新しい回路ができたのではないかと。
脳のレントゲンやMRI、CT画像を見ると、決まって「右腕、動かないよね」といわれます。初めて行った脳外科でも、CT画像を見て「しゃべれますか?」から始まりました。脳を見る限り、そうであってもおかしくない状態なのだそうです。国際自転車競技連合(UCI)のドクターも私の脳のCT画像を見て「こんなに壊れていてこの状態?」と驚いていました。
戻らないはずの運動機能が機能している様子を見た理学療法士の先生たちが本当に驚いていて、「これは新しい回路ができたとしか思えない」といっていました。私は軽度認知症なのですが、ここまで機能を戻すことができたというのは、やはり自転車のおかげだったのかなと思います。
話はそれますが、数年前まで認知症は「6人に1人」といわれていましたが、先日のニュースで「3.8人に1人」まで増えるのではないかというニュースがありました。今後さらなる認知症患者の増加が見込まれるなか、なってからの治療ではなく予防という観点が重要。そういう意味で自転車は足腰の負担も少なく、エアロバイクであれば転倒の心配もないのでご高齢の方にもおすすめかと思います。いまはゲーム形式で楽しく乗れるようなバーチャルサイクリングもありますし、ゆっくりであればその辺で楽しく乗ったり。一緒に乗る仲間を作るというのもとても大事なことかと思います。
─杉浦さんが考える自転車の魅力とは?
私が「ロードバイク買いたい」と思ったきっかけは、店長がいった「ロードバイクで箱根も上れるんだよ」という言葉でした。子供の頃から自転車で遠くに行くことが好きで、例えば友達と隣の市に食べ放題の店があるから行ってみたりとか。あのときは片道20kmくらいあったんじゃないかな(笑)。
それで、実際に箱根を超えて実家に帰ろうとしたのですが、そのとき道を間違えて最終的に走行距離が230kmに。休んでは上り、休んでは上りを繰り返しながら上り切って、なんとか帰りましたけど。
でも、ショップの仲間もいたので楽しかったです。仲間の存在はとても大きいです。仕事もまったく関係ない、年齢も違う人たちと、ただ同じお店で自転車買ったというだけで知り合うことができた仲間。それがいまも楽しさの根っこにあるのだと思います。
─いまもレースを忘れてサイクリングを楽しむことはありますか?
レースはできれば…、応援している方がいいかな(笑)。いまもレースやトレーニングから離れて、サイクリングに行ったりしています。近所なので、尾根幹から宮ケ瀬湖に行ったり、相模原から八王子の大垂水まで行って帰ってきたり。自転車はただ乗っているだけでも気持ちいし、楽しいですね。最近は1日にTSS(トレーニングストレススコア;疲労度を表す数値)を稼ぐのが楽しいです(笑)。ゆっくり走っても、外に行って帰ってくると軽くTSSが100を超えていて嬉しくなります。
─2028のロサンゼルス大会出場を視野に、すでにトレーニングを開始しているのでしょうか?
次のパラリンピックを目指すというよりは、いまはとりあえず1年先の世界選を目標にしています。他国の若い選手たちも育ってきているし、国内でも若手を育成していかなくてはならない。その中で自分の可能性を確認していきたいと思っています。一戦一戦丁寧に、自己ベストは出したいと思っているので、そのための練習を続けていければと思います。
─そんなご自身の活動を通じて伝えたいことは?
いまの世の中、自己肯定感低い人がとても多いのかなと思います。こんな普通の人間でも世界1がとれたという姿をみて、自分にも何かできるかもと思ってもらえたらいいですね。私もそうですが、自分自身何をやってもだめだって思っていました。だからいまそう思っている人がいたら、「自分も何かで結果出せるかも」という希望をもってもらえたら。
私は良い指導者に会えたことも幸運でした。リハビリの先生方や、指導してくれているコーチとか。その方々が私のベクトルを良い方向に向けてくれたと思っています。そういう人たちと巡り合うためには、自分でこういうことをやりたいとか、声に出してみたら何かとっかかりがつかめるのかもしれません。
─例えばそれはパラリンピックの出場だったと
実はパラリンピックに関しては私、自分で言ってないんですよ。たまたま「この障害で自転車乗ってるの?」と声をかけてくれた人がいて、その方が日本パラサイクリング連盟(JPCF)の関係者に私を紹介してくれたんです。しそれで「体験会来てみますか?」というところから始まった。だから何がどう動くかわからないので、とにかくやりたいことをやり続けて、そういう「輪」のようなものを広げておくと良いのかと思います。
「きっとあなたも大丈夫」って思うんですよね。私でもできたんだから、きっとあなたもできるよって伝えたいです。
─杉浦さんがおっしゃると説得力があります。
私は逆に何もできなくなったらよかったのだと思います。何もできないから、あがっていくしかなかった。それこそ最初は腕があがらなかったのですが、リハビリの先生が日々手を挙げる角度を分度器で計ってくれていて。90度挙げることを目標に「今日は何度あがった!」って。いま思えばそれだけのことですが、できないことができるようになるって本当に嬉しいんですよね。その積み重ねでここまで来れたような気がします。
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