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Interview インタビュー

絶頂期から低迷期までを見てきたダウンヒルライダー、井手川直樹が語る「MTBの世界」

—井手川さんがマウンテンバイク(MTB)を始めたきっかけを教えてください

 MTBに乗り始めたのは10歳のとき。1990年当時はギヤのたくさんついた自転車に憧れがあった時代で、MTBが欲しくて誕生日プレゼントとして両親に買ってもらいました。その前から、BMXだとは知らずにBMXを乗り回していたりして自転車に乗ることは大好きでした。住んでいた家の近所には空き地がたくさんあったので、友達と周囲をぐるぐる回ったり、駐車場でレースをしたり、段差を飛び越えて遊んだりしていましたね。

—レースに出始めたのはいつ頃からですか?

 MTBに乗り始めて1年以内にはレースに出始めていましたね。年に1、2戦くらいのペースだったかな。初めて出たのは耐久レース。広島から岩手の安比高原まで行って、80mしかないレースなんかもあったりして(笑)。小学6年生になると、当時通っていたショップのメンバーについて行って放課後は里山でMTBに乗るという生活を送っていました。

 それからしばらくして、クロスカントリーとダウンヒルの両方で活躍したジョン・トマックたちの映像なんかに影響を受けて、ダウンヒル競技も始めたんです。15歳になると公式戦であるジャパンシリーズのジュニアカテゴリーで優勝して、そのおかげもあって自転車部のある高校に推薦で入れたんです。

—井手川さんは高校1年生で、ダウンヒルの全日本選手権で優勝。16歳にして日本一になりました。部活動を続けながらダウンヒルも継続していたんですか?

 自転車部にはロード競技とトラック競技しかありませんでした。部活以外の時間にMTBに乗っていた感じです。トラックレースではタイムがそこそこ出ていて、その後のダウンヒル競技にも生かされましたね。当時から自転車雑誌で紹介される機会があったので、先輩からも優しくしてもらえたり(笑)。いろいろと楽しかったんですけど、思春期真っ盛りだったので、1年生は丸坊主にしなければいけないとか、"ドカヘル"をかぶって登校するとか、なじめないところもありました(笑)。

 16歳の時にダウンヒルのエリートクラスに特別昇格して、その年の全日本マウンテンバイク選手権で予期せず優勝してしまったんです。それをきっかけにダウンヒル競技に的を絞っていった感じですね。ダウンヒルには、カルチャー的な憧れもありました。当時は国内で負けなしのダートブロスや寿司パワーといったチームがあって、アメリカに遠征しているそんな先輩たちの姿をビデオで観て憧れていました。ファッションも真似してダボっとした感じのゆとりのある服を着ていたりして…。

—高校を卒業してからはどういった道を歩まれたんですか?

 18歳から20歳くらいまでは競技への熱が少し冷めたこともあったんですけど、競技自体は続けていました。次の転機は20歳ですね。ワールドチームのグローバルレーシングへ誘われて、2年間海外のレースをフルで回りました。チームメイトも速い人ばかりで、なかでもグレッグ・ミナーはチーム入り初年度にUCIマウンテンバイクワールドカップで世界チャンピオンを獲得して、チームにもすごい注目が集まりました。彼は今もワールドカップの第一線で走り続けていますね。

 2001年、2002年にはワールドカップを2年連続、日本で開催したんですけど、会場に3万人の観客がいたんです! ワールドカップだけではなく、一般参加型のMTBイベントにも参加者がたくさんいましたね。あるイベントでは、スキー場のゴンドラ待ちで2kmの列ができたほどです。今考えれば、あれがMTB人気のピークだったかもしれません。

—その後はどうなったんでしょう?

 シーズン3年目に入って、グローバルレーシングのチームが縮小することになってしまいました。その頃ちょうど、本田技術研究所がダウンヒルバイクを手掛け始めていて、ある日HONDAの関係者から「来年チームを作るんだけど入ってもらえない?」と声をかけられたんです。

 とりあえず会社へ顔を出しに行ったら、担当者が「日本のバイクに乗って日本人が世界で勝つことを目標にしている」と熱く語ってくれたり、ツインリンクもてぎにMTB専用テストコースを作っていたりと熱意がすごかった。テストバイクは重量があって、当初はレースでは使いにくそうにも見えたのですが、乗ってみたら意外と良い感触だったんです。

 そこからはテストライドを繰り返しては、ホイール担当やトランスミッション担当など20人くらいのエンジニアにフィードバックしていって、2003年に誕生したHONDAのチーム「Team G Cross Honda」(チーム・ジークロス・ホンダ)に入りました。チームが誕生したときは「あのHONDAがMTBを手掛ける」と大騒ぎになって、世界的なニュースになりました。2シーズン目は所属が本田技術研究所からモータースポーツに専門的に取り組むホンダ・レーシングカンパニー(HRC)に移り、また注目が集まりました。

 ホンダ参入のインパクトは大きかったですね。サスペンションのSHOWAやKYB、曙ブレーキといった異業種もMTB業界に参入してきて、各社がパーツ製造を行うようになりました。曙ブレーキのように自前のチームを持つところもあったりして、MTB業界がどんどん活性化していきました。技術面でも凄く進化していきました。当時のサスペンションには電池がついていてボタンを押すとロックしたんです。今でもそうした製品もありますが、技術は15年先を行っていたと思います。

—HONDAは撤退してしまいましたが、その後はどうなったのでしょうか?

 2008年にHONDAのプロジェクトが終わった頃から、イベントの参加者・観戦者も減り始め、メディア露出も少なくなっていきました。もともと7〜8戦あったジャパンシリーズも5戦に減ってしまい、その頃からMTB業界全体がガタっと落ち込んでいったように感じます。

 とはいえ、自分はレースが続けたいし、かといってHONDA時代ほどの収入が得られるスポンサーも見当たらなかった。プロライダーとしてレースだけでは生きていく道もない、という状況に追い込まれたんです。

 だから自分から動きました。レース数や参加者を増やすための一歩としてフィールドを作ったり、異業種を巻き込んで盛り上げるためにスキーヤーとマウンテンバイカーでアウトドアイベントを立ち上げたり、大人向けのスクールを実施したり。その頃から普及活動にも特に力を入れるようになりましたね。

—MTBの人気がなくなってしまった根本的な原因は何なのでしょうか?

 海外のアウトドアブームにのって日本に入ってきたのがMTBです。それに憧れた当時の20〜30代の人たちがMTBに乗っていたわけですが、ライフステージが変わり、家族や子供ができて趣味にお金を使えなくなり、MTBから離れていったのではないかと思いますね。ルールやマナーも整っていなかったですし、単純に流行で終わってしまったんじゃないかと思っています。

—今、MTBにいい流れはないのでしょうか?

 2008年から2011年くらいまではかなりの低迷期でしたが、当時から比べると今は良い流れが来ています。状況は好転していると思います。ダウンヒルだけで言えば、ドローンを扱う企業など異業種も興味を示しています。エクストリームスポーツなので、映像としても広告などでも映えますからね。

 MTB業界全体でも、全盛期に乗っていた人たちが戻ってきていて、今度はファミリーでMTBを楽しもうという雰囲気を感じます。フィールドも数はまだまだ少ないですが、白馬岩岳のコースも復活しましたし、年々新しいフィールドも増えていたり、里山と林道の有効活用をしたいという声も上がってきたり、いい流れがあります。

 これから先のことも考えて注目しているのが、ランニングバイク「ストライダー」の売れ行きです。年間数十万台売れていると言われていて、このうちの1割でもMTBに乗ってもらえれば、裾野が大きく拡大すると思っています。そのためには、ランニングバイク、キッズバイク、MTBといった順に乗る流れを作る必要があります。今、その流れは出来上がりつつあって、キッズバイクの売れ行きがかなり良好なようです。子供がスポーツ車を買うとその両親も一緒に買うという流れもあり、MTBの普及としては相乗効果がありますね。今はスポーツ車にとってのターニングポイントだと思います。

—井手川さんのこれからの目標は?

 ダウンヒル選手としてのピークは20代半ばまで。今はいつまで選手を続けられるかに挑戦しています。もちろん優勝することが目標です。体力的にも厳しくなっていますが、多くの人に勇気と楽しさを与えられる存在になりたいですね。

 また、子供に安全に自転車に乗ってもらうための普及活動も推進しています。「日本キッズバイク安全普及推進協会」を設立し、代表理事も務めています。こうした活動を通じて、安全に自転車に乗ってもらい、MTBの楽しさ、かっこよさを伝えていきたいですね。MTBを楽しんでもらえる文化を日本にも根付かせていきたいです。